ゴブリンの歌

夜。
暗闇。
深い深い、黒の空。
遠くで鐘が、何かを歌うように鳴り、響き渡る―…

「くいだおれ」のリーダーでもあるブロウは目を右往左往に向けていた。
赤い液体が撒き散らされた路地。何があったかは、想像にたやすい。
そして、ぼんやりと思考する。

冒険者になって、どのくらい経ったのだろうか、と。

昨日一昨日のつい最近のような。
はたまた一年や二年といった長い間のような。
なんともなしに賞金首や魔物退治の危険と隣り合わせの依頼をやったこともある。
また、失せ物探しや届け物、おつかいのような日常的な依頼もやったこともある。
護衛や下水道掃除―…上げ始めれば、キリがない。
殆どが、誰かの助けになりたいという、一心だった。
もちろん、命を落としかけたこともあったが、なんとか首は繋がっている。
しかし、冒険者を辞めようとは微塵も思わない。
上手く仕事を終えた後の依頼人の顔を見るのも好きだが、それだけではない。
仲間と一緒に行動して何かを解決する楽しさ、それもある。
だけど、それ以上に、風の赴くままで自由気ままに生きていられることが、好きだった。
安定や安寧とはかけ離れた職業。
だが、それでも性にあっている、とブロウ自身は思っている。
何かに裏づけをされたわけではない。ただ、自分がそう思うのならば、そうなのだろう。
ぼんやりと思考の海に漂っていると、現実を引き戻すように仲間の声が聞こえた。
そう、そんなことを考えている暇はないし、そんなことは帰ってからでも十分だ。
思考を切り替え、どうしてここに来たのか理由を思い出す。
「襲撃はついさっき。警報に駆けつけた衛兵3人をさくっと殺して裏道に逃げたみたいだね。
 そのあと近くで遊んでた子供二人を殺して、今は目の前の家に引きこもってる。中の住人は3人。無事かどうかはわからないけど、突入命令待ちだよ〜。」
用件だけを淡々と、矢継早に答えるのは、一人の少年。
名をルートと言い、これでもパーティ内の重要な役割である『盗賊』を担っている。
くるくると指をまわしながら何時もの笑顔を浮かべたまま。笑っている場合でもなんでもないのだが、そういう癖みたいなものらしい。
だが、確実に言うべきことは伝えるその姿勢に関心すら覚える。
ルートの報告を聞いたブロウはスイッチを入れるように小さく息を吐いて、獲物を真っ直ぐ正面に構えた。
「ちょっとちょっと!一応雇われてるんだから、衛兵さんの命令を待たないとダメだよ!」
ルートはブロウが何を考えているのか即座にわかったのか、制止の声を上げる。
しかし、ブロウは正面を見据えたまま、獲物を下げようとはしなかった。
「依頼は住民の救助だろ。命令を聞く依頼は受けてない。」
そうー…無事かもしれない。今突入すれば、住民は殺されずに住むかもしれない。
「衛兵さんもやられてるのに、うかつなことは危ないよ〜?」
ルートが笑顔のまま至極まっとうな意見をぶつけてくる。
誰が聞いても正しい意見。
衛兵だって殺されているのだ。しっかりとした訓練を受けたものですら、残念な結末を迎えている。
つまり、自分たちもそうなる確立が高いのだ。だが、こちらにだって多少の腕は自信がある。
もし、衛兵とぶつかり合ってもこちらが勝てるくらいの自信はあるのだ。
だから、かもしれない。
「だから、手遅れになる前にやるんだ。」
屁理屈だな、とブロウは自覚していた。
しかも下手な。
けれど、目の前に風前の灯火のような命があるのだ。困っている人を見捨てられない自分だからこそ、動かないわけがない。
それと同時に、判断を誤ったときのリスクを考えていた。
助けられるはずの命は助けられないかもしれない。それどころか、報酬に響くかもしれない。
でも、ブロウは自分の中でそれらを天秤にかけることもなく、行動を決めていた。
『行け』と、本能が言っている。いける。だから、進め、と。熟練とはいかないが、冒険者のカンが働いている証拠だと自身では思っている。
相手はゴブリン。
一人でも十分に片付けられる相手。
「それにさぁ、もう死んじゃってるかもしれないし?」
ルートがさらにありうる事を言って止めようと試みる。
しかし、ブロウはその可能性に口で反論するのではなく、歩き出すという態度で答えを示す。
やりとりの一部始終の中、ルートは自分勝手なリーダーの行動にひょいと肩をすくめてみせた。
もちろん、ブロウだってわかっていた。ルートが言っているのはあくまでも建前。
助けられると踏めば止めなかった。
そもそも、自分自身だって助けられると踏めば疾風のごとく駆けていくだろう。
そうしなかったのは、ルートと同じ考えをもっていたからに違いはない。
時に冷酷さえ感じる、盗賊の観察力。
それでもブロウにとって、もはやそんなことは問題ではなかった。
進みだすしか、ない。
可能性を、過程に変えていくしかないのだから。


室内は、薄暗かった。
夜の闇のほうが、空に浮かんだ月のおかげで明るいほどに。
おかげでしばらくは目を凝らしていくしかない。
あたりはしぃんと静まり返っていて、聞こえる音はたった二つ。
風で植木がすれる音。そして、自分の靴が床をにじる音。
頭上ではランプが赤く煌き、自分の影を長々と延ばし、浮かび上がらせる。
通路の奥へ奥へとブロウを写し取った影法師が主人を導くように吸い込まれていた。
その先に、神経を研ぎ澄まし、歩く。

―…やがて、エントランスを抜けて、長い廊下に立った。
相変わらず人の気配は、ない。
何故か、扉も窓も開け放たれていて時折隙間風が通り抜けていく。
背中越しに差し込むランプの明かり。影が、通路に張り付くようにして伸びかかっている。
ようするに、まだ何もないのだろう。ブロウはまだまだ続く家の奥へと足を踏み入れようとして、気づいた。
異変―…いや、異物に。
「あれ、は……」
それは、つい先刻まで生きていたはずの人物。今は死者。
命から命が奪われる、最悪の略奪を受けてしまった人間の体。
その姿は人形よりも儚く見えた。
(…まだ、いるかもしれない。他の生存者。)
限りなくゼロに近い可能性。ゼロと言い切ってもおかしくない可能性。
でも、決してゼロではない、そう自分にブロウは言い聞かせる。
衛兵の命令も無視してしまったことだし、進む道しかないのだから。

こつ、こつ、こつ。

音を立てて、さらに床を歩いて進む。誰か人の気配、いや、生き物の気配すら、なかった。
大きな窓のある通路に出たとき。
―…また、見つけてしまった。
死んでいる、男の体。
ブロウはなんとなく苦しくなった胸を握り締めて、その形に添って視線をめぐらしていく。
するとそこには、盛大に壁に向けて撒き散らされた血飛沫の跡。バケツをひっくり返したような血の海。
踏み出す足が、靴底を滑らせていなければ、まだ望みをもてたかもしれない。
それほど、ひどい出血量だった。
その奥に、もう一つ。
女の人だろう。壁に背を打ち付けて倒れていた。
そしてやはり女性も、大量の血液を撒き散らしていた。
もう、どこからどこまでが誰の血でわからない。ただわかるのは、どちらとも完全に絶命しているということ。
要するに、「遅かった」、のだ。
「……っ…」
わかっていた。こうなっているということは。
ルートが言った時点で、わかっていたのだ。
しかし、こうやって事実を目の当たりにすると、やはり辛い。
助けられたかもしれない命。
もうすこし、踏み出すのが早ければ。この家の人たちは、替わらぬままに幸せで穏やかな生活を送れただろうに。
ブロウは、行き場のない悔しさと悲しさを抱きしめつつ、先に進む。
つい先程までは、全てが良しとして終わるハッピーエンドを想像してもみていた。
しかし、今はその想像が全て別次元のことだったかのように、消えうせていた。
そう、まだ終わっていない、終わっていないのだ。
元凶を叩かなければ、被害は増えていくのだから。
ブロウは息を殺し、先に進む。いるのならば、この先。
自分の唾液を飲む音が脳裏に響く。
歩を進めるたびねっとりとしたものが自分にからみつく感覚。

気にすることは、ない。

自分の思うとおりに進むほうが、いまどき珍しい。

あの状況から考えられる最悪の結末がなくなっただけだ。

まだ、予想の範囲内。だから、大丈夫。

それよりも、目の前のことに、集中しなければいけない。

ブロウは、獲物を握りなおす手に、力を込める。
廊下に何も誰も居ないことを確認して、兆階の外れたドアを押し開ける。
そして、突入。
部屋に入って一番初めに目に付いたのは、真ん中のどす黒い死体。
死体はこれで4体目。
「…4つめ?」
おもわず、数えなおしてしまう。
死体の数がルートの報告と、数が合わない。住人は3人だといっていた。では目の前の死体はいったい何なのか。
この、場違いとも思えるほどの雰囲気を持った死体は。
考えられる可能性としてはたまたま、そこに居てしまった人。
沈没する客船に乗り合わせてしまった、そんな不運な人間。図らずとも断頭台に上っていく子供。
非情にも配られた運命という名前のカードを透かして見たような、気分だった。
きっと、いつのまにか何の前触れもなく終わってしまったのだろう。
軽い、運命だ。
ブロウはその現実に嫌悪感しか抱くことができなかった。
なにも奇麗事だけじゃないのは知っている、理解している。
現実こそが悪夢だと、誰かが言っていた。

―…違う。

ブロウの本能の針が、触れた。
違う、妙なのはそこじゃ、ない。『ありえない』のだ、その死体は。
闇に紛れるほどのどす黒い死体。なのになぜか、視界に入ってくるのだ。
まるで自分はここにいる、と死んでいながらも語りかけてくるように。
先程までにあった死体の儚さは微塵も感じられない。
しかし、そんな違和感を考えている時間はなさそうだった。
もっと先にやることがあるだろ、と訴えかけてくる本能。
何か、越えている気がするのだ。決定的な、何かを。
ブロウが一歩踏み出したとき、その死体はあろうことか動き出した。
腰から反り返り起き上がるという、不恰好だがありえない動きはマリオネットを髣髴とさせる。
何の前触れもない、死体の動きにブロウは完全に反応できていない。

違うッ!あれは、死体じゃない。
なのに、どうして自分はこんなにも無防備に突っ立っているんだ。

死臭の立ち込めるこの館において、死者意外にも存在するもの。
殺意をむき出しにして、耳をつんざくような咆哮。
人の姿に似ているように一回り小さく、緑の爛れた皮膚をまとい、蒸されたような醜悪の呼気を持つ醜悪な魔物。
その異様が、体をねじるようにして爪を振りぬいてきた。
「なっ、ゴブリン!?」
ひゅん、とゴブリンの爪が風を切る。
とっさにブロウは左腕を防御に回して耐えるが、はしる激痛に顔をしかめることしかできなかった。
ゴブリンにしては早すぎるその動き。
完全に受身にしか回れず、嫌な汗が吹き出るのを感じた。
ひゅん、びゅんと、続けざまに爪がうなる。二撃、三撃と確実にこちらを狙ってくる。
もしも、このやり取りを傍から見ることができたのなら、視線だけでブロウの喉笛を掻ききらんとするゴブリンの赤く光る瞳からでる眼光の鋭さが伺えたかもしれない。尤も、対面しているブロウにそんなことを考えている余裕はない。
実体がないのかあるのかわからない朽ちかけた体と常識はずれな動き。
体制を立て直すことを念頭におきつつ、必要な思考だけを動かす。
相手がどういうものであるかを把握し、そしてその対応を的確に行動しなければならないから。

―…ひゅんっ!

再び爪が襲い掛かる。
ブロウは4撃目であるそれをなんとか弾いて、間合いを取る。
「…ゴースト化、だっけ。」
そして、結論。
パーティ内の参謀でもある兄の知識を、頭の引き出しから出す。だが、認識をするまでにいささか手間取りすぎたかもしれない。
ゴブリンもとい、ゴーストは、何事もなかったかのようにこちらへと距離を詰めてくる。
その体はゆらゆらと、全身がどこか陽炎のようなあいまいの存在。つまりは、直接攻撃が意味を成さないことを示している。
「やばい、よな…」
じっとりと背中にながれる、冷や汗。
ブロウは、剣を使った直接攻撃専門の戦い方をする。そう、ゴーストやレイスといった精神体に干渉できるような技術を持ち合わせていないのだ。
それに、ゴブリンのゴーストなど初耳で、聞いたことなどない。
初めての敵。最悪の相性。そして、一人だけというこの状況は危険を通り越して死へと道が向かっている。
ブロウはなんとかそれを阻止しようと、自分の中にあるゴーストに対しての知識をフルに出す。
そもそも、ゴーストというもの自身人の思念体のはず。未練や強い思いを残した人が、ゴーストになって人を襲う。よくある話だ。
では、目の前の事実はいったいなんなんだ。それだけ実力のあるゴブリンだったのだろうか。
次々に思考が浮かんで、消えていく。
「どうするよ、俺…」
とりあえず間合いをあけて―…しかしそれは時間稼ぎにしかならない。
どうしようもなく焦りばかりが募ってきた頃、場違いなほど軽快な足音がこちらへと向かってきた。
「死者の怨念がゴーストになってさまようように、ゴブリンの怨念が町を襲った。
 彼らも「生きていた」というのならば、何も珍しいようなことでもないと思うが。」
背後から響いてくる、冷静で聞き覚えのある声。ブロウはそれが誰のものなのか振り返らずともわかり、思わず苦笑した。
「……兄貴。」
パーティの魔術師でもあり、参謀としてその力を発揮している、頼れる人物、イレイス。
「ゴーストとにらめっこか。中々に楽しそうだな。」
イレイスはブロウとその対面している相手を改めて見直し、何時もの軽口。
「あのなぁ…見てたんだったら手伝えよ。」
ブロウが苦笑した顔のまま言う。
恐らく、イレイスのことだ。
全く驚いていない口ぶりなところをみると、ブロウがゴーストと対面したときにはすでにこの部屋近くにいたのだろう。
「全く、しょうがないな。」
あいかわらず捻くれているのかなんなのかわからない。ブロウにとってはイレイスの冷めた態度など慣れっこなので、これ以上は何も言わない。
そして二人はそれ以上言葉を交わすことも、顔を合わせて合図することもなく、黒い影と対峙する。
お互いにどういう癖の持ち主で、どういう戦い方を展開するのかわかっているからこその構え。
ゴーストは冷め切ったイレイスとは対照的に、ただ怨念の赴くままにぎらぎらと瞳を光らせ、虚空に吼える。
ブロウもそれを合図にするように、ゴーストの襲撃に向かうため、再び獲物を構えなおした。
「……平和を、願っていたのかな。」
ぽつり、つぶやく。
「どうした、藪から棒に?」
対面したゴーストを身構えつつ、吐き出されたブロウの言葉にイレイスが反応した。
「いや、さ。あれは怨念の塊なんだろ?なんだかんだいって、俺たち人間が住処を襲ったからああなっちまったんだと思う。だから。」
ブロウは、優しい人間だ。
傷を、痛みを、自分のものとして置き換えて考えることができる人間。
そしてそれを逃げも隠れもせず真っ向に受け止めてしまう人間。
恐らく、先程の自分の発言を聞いて、そういう答えにたどりついたのだろう。
だが、そうなることを想像しきっていたイレイスはふぅ、と軽いため息をつくばかりだった。
「……同情しているつもりか?」
返す言葉にブロウは、答えない。

「でも、オレ達はゴーストではありません。」

ブロウの変わりに答えたのは、セツナ。パーティの中で闇魔法を習得しつつ僧侶をやっている変わり者だ。
それと同時に、残りのメンバーも部屋に突入してくる。
「そういうことだよねぇ、せっちゃん♪
 毛布に包まれて見送った顔がもう一回出てきたら、さすがに後味悪いもんねぇ〜だからさ、もうちょいと落ち着いてみればどーぉ?」
ルートが、甲高い声で嫌な空気を打ち払う。
機転をまわしてくれた、と理解する。雰囲気にのまれつつあったブロウは、何時もの調子を取り戻していくのを感じた。
それと冷静になっていくにつれ、体が妙に軽い事に気がつく。
ブロウがセツナのほうを見ると、セツナはくすりと微笑んだ。祝福だ。いつの間にか掛けられていたのだろう。
「皆、前を見ろ。来るぞ。」
パーティの中の唯一の大人、シンヤが落ち着いた調子で注意を促す。
彼はブロウと同じくして戦士をやっているが、力主体の戦い方を展開していく豪腕の持ち主だ。
「皆…」
ブロウ自身、まさか全員そろうとは思わなかった。衛兵が入ってこないことを見ると、突撃命令は出ていない。
つまりは皆で命令無視を行ってしまった事になる。だが、それでこそ自分たちなのかもしれない。
不意に浮かんだ笑み。その笑みを一瞬で元に戻すと、ブロウは眼下の目標を見据えることに専念した。
「命の執念。かくも強きかな」
イレイスが誰に言うでもなく、つぶやいた。
それを引き金にして、シンヤは目標との距離を詰めた。振り上げる、剣。ダメージを与えられないのはすでにわかりきっている。
だから、周囲のための時間稼ぎ。
「普通の武器じゃ、ダメージとおらないんだよねぇ。」
ルートがシンヤをサポートするように短剣で連携を加えてみるが、ゴーストには一切命中しない。
というか、武器がするりと抜けるようにして通過してしまう。
「だから頼んだぜ、兄貴!」
ブロウも前衛に加わる。しかし頼まれたイレイスはというと軽く手を上げて一言。
「ま、努力はしてみようかね。できないだろうけど。」
軽い調子で言い放つ。その口調とは裏腹に、言っていることは絶望的だ。
『はぁ!?』 『えぇ!?』
ルートとブロウの驚愕の声が同時に響く。
そんな二人の驚きの声を無視しつつ、イレイスは手早く魔法の矢を形成すると、ゴーストに打ち込んだ。
魔法の矢は、真っ直ぐに飛び、ゴーストに見事命中する。
しかし、それによって体が吹き飛ばされるはずのゴーストは、何事もなかったかのようにゆらゆらと存在していた。
「うわー…ぜんぜん効いてないよー…」
ルートがその結末に思わず声を出す。
「あぁ、補足しておくができないことはないぞ。ただ、やろうとした場合家ごと吹っ飛ぶ羽目になるだけの話だが。」
「…ようするに、怨念の力が強すぎて魔力が伝わりにくい、ということですね。」
イレイスの補足を、さらにセツナが補足する。つまるところ、魔法の矢や炎の玉ではゴーストにダメージを与えられないのだろう。
もちろん、イレイスは数多くの魔法を取得していて、それに見合う魔力も所持している。
しかし、目の前のゴーストに確実にダメージを与えるには強力な魔法―…間違っても屋内では使わないような魔法なのだろう。
ただでさえ衛兵の命令を無視した行動をとっている今回、そんな無茶をやれば報酬減額どころではすまないのは火を見るより明らか。
「だったら、逃げる準備だけでもしておけ!」
シンヤが剣をはじかれ、たたらを踏みつつもなんとか体制を持ち直しつつ、叫んだ。
そう、目の前の敵にあまりに無力だ。
ともかく、引き付けるなりなんなりして外へ引っ張り出せれば勝機は見えるのだろうが、今のままでは埒が明かない。
「そうだな、皆、逃げる準備をしてくれ!外まで引き付けよう!」
ブロウが即座に判断、指示を出す。そうなれば、後の行動は早い。
蜘蛛の子を散らすようにして四方八方に分かれ、出口を目指していく。
「ていうか、ぶろりんちょっとやばくない!?」
ルートが声を高らかに上げる。何故なら意外に、ゴーストの足が早いのだ。
一番初めに突撃したシンヤはゴーストの攻撃に弾かれたので一定の距離があったから良かったものの、問題はもう一人。
「チッ…ブロウ!」
少し遅めで接近戦に参加してゴーストとの距離が比較的近かった上、周囲に指示を出した所為で少しだけ足が遅れていた。
イレイスは舌打ちと同時に魔法の矢を数本形成し、ゴーストに打ち込んでみるものの、やはり効果は皆無。
魔法の矢を無力化したゴーストは、逃げるブロウの背後から爪を振り上げ、再び攻撃をしかける。
「っ…!」
ブロウはゴーストの襲撃に、なんとか剣を使って反応した。しかし、いかんせん受け止めた体制が悪かったのだろう。
「うぉ…っ…」
完全にバランスを崩し、しりもちをつく。ゴーストは、これ好機とばかりに再び爪を振り上げた。

ヤラレルー…

ブロウは人生の最後を目の当たりにし、完全に固まっていた。イレイスは再び舌打ち。
どうすればいいのか必死に頭を回し、地面に視線を這わしたとき、あるものを見つけた。
たまたま荷物袋が落下して、中身がぶちまけられた状態。ガラクタのようなものから実用的なものまでそろったなかで、一際目立つものがあった。
「――間に合え!セツナっ!」
イレイスはとっさに荷物袋から転がった一つのビンを取り出し、セツナに投げつける。
同時にゴーストが、爪を頂点まで振りきった。
そして数瞬後、セツナの手の中に、小ぶりのビンが入り込む。それは、中に透明な液体が入っており、ちゃぷんと受け止めた勢いで中身が揺れた。
セツナはすぐさまそれが何であるかを理解し、ビンのふたを開く。
同時に、ゴーストが、爪を振り下ろす。
「神の御名において命じます!この世の摂理に背く者よ、土に還りなさい!」
セツナが神から与えられし言葉―…祝詞を叫ぶ。
直後、ビンの中身がまるで意思を持ったかのように飛沫のあげつつゴーストに飛んだ。
そのなかのたった一抹がゴーストに付着した瞬間、魂の奥底までも響き渡る絶叫を残し、ゴーストは溶けるように消滅していく。
完全に姿形が消えうせたのは爪がブロウに突き刺さる、その直前だった。
「……なんとか、間に合いましたね。」
そう、イレイスに投げ渡された小瓶。その中身は、不浄なる存在を消滅させるために作られた聖なる液体、聖水が入っていた。
ふぅ、とセツナは中身のなくなった小瓶―聖水にふたをしつつ息を吐く。
ブロウは、急に起きた事に反応できず、しばらくぱちくりと目をしばたかせる。
だが、目の前のゴーストは消え去り、自分が助かったのだとようやくそこまで頭が回ったとき、口がだらしなく開いた。
「は、はははっ…」
そのまま、疲れたような乾いた笑い声が無意識に漏れるように出ていく。
それと共に、どこからか同じような疲れた笑い声が響きだした。

その笑い声はしばらく続き、やがて止む。

「全く、聖水さまさま、だな。」
ブロウは立ち上がり、セツナの手の中にあるままの小瓶を見つめて笑った。
「最初からやってほしかったよーな…」
ルートが喜びともなんともとれない笑顔を浮かべていた。
その意見に対し、誰もが存在を忘れていた、なんていえるはずもなく。
誰かが気まぐれで荷物袋に投げ込んだ聖水。たまたま荷物袋が何かの拍子でぶちまけられて。
たまたまイレイスの目に入らなければ、今頃取り返しのつかないことになっていただろう。
「全く。今回は運がよかったようなものだぞ。」
イレイスが手厳しい目をブロウに向ける。
「わかってるって。でも、助かったよ、兄貴。」
それをブロウは、笑顔で返す。イレイスはやれやれとばかりに被りを振りかけ、その動きをぴたりと止めた。
「…兄貴?」
ブロウが、不自然な停止をしたイレイスに小首をかしげる。
先程の戦いで、どこか負傷でもしていたのだろうか、と単純に心配になっただけだ。
「いや、少し、な。」
イレイスはそういうと、顔をうつむかせたまま服のすそでごしごしと目をこする。
「…ごみでも入ったのか?だったらこすらないほうがいいんじゃ…」
そう言いながらブロウがうつむいたままのイレイスの顔を覗き込む。
そして、ブロウもぴしり、とイレイスの様子をみて固まってしまう。
まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように。
覗くなといわれたのに覗いてしまった鶴を助けた老人のように。
それから数泊置いて。怖がりの子供が大きな虫を発見してしまったときのような絶叫が部屋中に響き渡った。
「ど、どーしたのさ、ぶろりん!」
ルートがありえないブロウの叫びを聞いて、二人の元に駆けつけた。
「あ、兄貴が…っ!兄貴がー!!」
ブロウは完全に恐慌状態に陥っていた。ゴーストを見て、戦ったときよりも完全に混乱している。
「いっちーがどうかしたの?」
ルートは、そんなブロウの反応を流石におかしいと思ったのか、イレイスのほうに顔を向けた。
イレイスはイレイスでちょうどそのとき、顔を上げていた。
交わる、視線。
ルートの顔が、一瞬にして笑顔が引きつり、そしてみるみるうちに驚愕の表情に塗り替えられていく。
何故なら、イレイスは瞳から大粒の涙をぽろぽろと流し、『泣いていた』のだ。

間。

ひ、ひぎゃぁぁあー!?なにその状況!え、何、それ、バグ!?ってゆーか、呪いぃ!?」
ルートも同時にブロウと同じくして驚愕の叫びをあげてしまう。
冷静沈着、極悪非道で人間の血が流れているかもわからないような人間が泣いているのだ。
二人でなくとも、同じ境遇に位置すれば誰しもが同様の反応をとってしまうだろう。
「どうしたんですか、ルート。二人でそんな声を上げて。」
セツナがこちらに振り向こうとするが、ルートは亜高速でそれを阻止。
背中に手をやり、振り向かせないための必死の抵抗をする。
「だめだよせっちゃん!!目を合わせたら石になっちゃうよー!!」
セツナはルートの言い分にああそうですか、と何故か納得したような返事をし、そのまま振り返ることをしなかった。
対して、酷い言われようでしかないイレイスが、呆れたように口を開く。
「…おい、私はメデューサか。」
目を合わせたもの全てを石化させてしまう蛇の髪をもった魔物。人々に恐れられる、という点では今のイレイスとは酷似しているのかもしれない。
「いやあのゴメン。それより、大丈夫なのか、それ…」
いち早く復帰したブロウが、軽い謝罪と共に涙を流しっぱなしのイレイスを見る。
もう拭うこともしないそれは『泣いている』、というよりも蛇口の壊れた水道のようだ、とブロウは思った。
「あぁ、魔力が強すぎて感化されているような物だからな。あとついでに言うとブロウ、お前もそういう体質持ちなの忘れるなよ。」
「へっ…?」
イレイスとブロウは、双子故に持っている魔力がほぼ同一。
ブロウは魔法を使えないがために時折忘れるのだが、魔力自身は彼の体に存在しているのだ。それも、強大な量の魔力が。
「……っ!」
ブロウが、自らの異変を感じ、声にならない声をあげる。それと同時に、ぼろぼろとイレイスのように涙が彼の目からも零れ落ちだしたのだ。
「きゃぁ、ぶろりんまでいっちーの毒牙に!……でも、見ててダメージは少ないね。」
ルートがその光景の一部始終を見ていたのか、率直な感想を述べる。
むしろ不自然を見つけるのが難しいや、と一人で納得してうなづく。
「日ごろの行いだろ。」
それまで黙っていたシンヤが、不意に声をあげた。多分、今までの展開があまりにも馬鹿馬鹿しくて声を上げる気にもならなかったのだろう。
「言うじゃないかシンヤ。お前もうつしてやろうか?」
にやり、とイレイスが口を吊り上げ、皮肉めいて言う。相変わらず涙は流れたままなので、表情は凄惨というか混沌と化しているが。
「結構だ。」
シンヤはイレイスに目も合わさずぶっきらぼうにそれだけ言うと、散らばった荷物袋の中身を回収し始めた。
「あ、オレも手伝いますよ。」
セツナがそれに参加する。
「僕も手伝うよ〜。」
ルートもそれに参加する。
二人に声をかけなかったのは、夜で視界が効きにくい上に涙というハンディキャップの中作業ができないと判断したため。
という、ちょっとした心遣いだろう。

ブロウは、涙を必死にぬぐっていた。
零れ落ちる涙。自分は悲しいわけではないのに、どうして溢れ出すのかわからなくて。
体質だと、イレイスは言っていたものの、感情が高ぶり、どこかで本当に『悲しい』のだ。
(平和を、願って―…)
ゴブリンも、生きていた。そして自分たちも生きている。
住処を略奪されることも、奪う権利もどちらも何もないはずなのに。

どうして、どうして―…

「おいこらブロウ。」
すぱぁん、とイレイスが短く彼の名前を呼ぶと共に頭を軽快な音と共にはたいた。
「兄、貴…?」
ぐし、と再び強く涙をぬぐいブロウは顔をあげる。
両者共に泣きはらしたその瞳は赤くなり、拭いすぎたせいかどこか瞼も腫れていた。
「思考まで感化されるな、馬鹿。」
「――っ!」
まるで考えを読んでいたかのようなイレイスの言葉。
実際、彼もこうして涙を流しているわけだからそういう風に感情が揺れ動いたからかもしれない。
しかし、ブロウには生憎とそこまで回る頭を持ち合わせていないものだから、単純に驚くことしかできなかった。
「優しすぎるのも、考え物か。」
イレイスは責めるようでも嘲るようでもなく、ただ独り言のように漏らした。言葉に出来ない微妙な雰囲気が、二人の間に流れる。
「ねーぇ、二人ともー、荷物あつまったよー。」
そこに、ルートが間延びした声を投げかける。
その手には、少しだけ荷物の詰まった袋がしっかりと握られていた。
「ああ、そうか。じゃ、出るぞ。」
イレイスは先程までの鬱蒼な空気を振り払うように立ち上がる。
ブロウの手を引いて。その瞳にはもう涙は流れておらず、しっかりとした足取りで先を進む。
「ちょ、止まんないまんまなんだけど俺…」
ブロウはまだ涙をながしたまま、ゆがむ視界に困惑しつつもイレイスに手を引かれた状態で立ち上がる。
「此処から出れば止まるだろ。」
イレイスは事実だけをつげ、先に進む。
「それまではいっちーのリードにかかってるわけだね。いけ!そこで壁にぶつけちゃえー!」
ルートがそばで、じゃれるようにブロウに軽くぶつかる。
「ルート、壁にぶつけるのはいいですけど、その辺の物を壊さないようにしてくださいね。」
セツナがその後ろについて進む。
家には優しい発言だが、ブロウには厳しい発言だ。
「…どーでもいいけどな、暴れすぎるなよ。」
シンヤが全体を見渡し、呆れ半分といったように言った。



宵闇の中、冒険者は歩く。
「どうしようかな、これから。」
涙の収まったブロウが、どことなくぼんやりと言った。
衛兵の命令を無視した特攻の代償を考えているのだろう。
「さぁ、な。だが、怒られるのは確実だな。」
イレイスが本気で悩んでいるブロウに飄々と言う。
まるで他人事のように。
「いいんじゃなーい?昔から言うよね。皆で怒られれば怖くないって。」
ルートがえっへんと胸を張る。決して威張れることを言っているわけでもないのが、事実だ。
「そうだ、な。怒られるの覚悟で、明日を迎えるか。」
ブロウはその意見に笑い、決める。



もしも。

自分が存在できることを許されて。

誰にも邪魔されず奪われないそんな所を見つけることができたのならば。

そのとき、皆一緒に笑いあうことが出来るのだろうか。

いや―…


「やってみるしか、ないのかな。」

ぼんやりと、ブロウは思う。
あのゴブリンのようにならないためにも。
こうしてなんとか、生きることを選び続けているのだから―…



ゴブリンの歌 Fin


Designed by chocoto